you me

Toshifumi Tafuku




「そして一般の人びとが美や情感などを問題にせずに、記帳し、日記を書き、メモをとるように写真をさかんに使いはじめるとき、そのとき写真家は
 なにをしようとする人たちなのか。おそらく写真家という名は、このときはじめて本来の意味を確立することだろう。」
大辻清司「事物と記録」より




エヴァンゲリオンの中で鈴原トウジ相田ケンスケが、惣流・アスカ・ラングレーを盗み撮りした写真をクラスメイト達に売りつけて金もうけしてい
るシーンがあるが、そのとき鈴原トウジが青空をバックに透かし見ていたのはネガフィルムだった。
エヴァンゲリオンがテレビで放映されていたのは1995年から1996年のことなので今から11〜12年前の話である。僕は16,7歳で高校生だった。確かにそ
の頃を思い出せばフィルムを使って写真を撮るのが当たり前のことだった。まわりにデジタルカメラを持っている友達なんてのは一人もいなかった。
そしてご承知の通り、現像なりプリントなり少なくない金がかかるので、そんなに写真なんて日常的に撮ることなんてなく、せいぜい使い捨てカメラを
遠足なり修学旅行なりのイベントごとに買ってもっていく程度のことだった。(白黒写真やセピアの写真が撮れる写るんですが流行っていたなあ・・・)
つまり、そのころの僕にとって写真というものはスペシャルなものであった。


変化のスピードがかなり速くなっている。
カシオのデジカメがついた携帯電話をこないだ携帯ショップで見て、携帯電話のカメラもここまで来たかと思った。
写真を撮ることは一般の人びとにとってもう特別なことではなくなっているんだろう。
そのとき写真家はなにをしようとする人たちなのか?
きっと立ち位置を明確にする必要があるのだと思う。単なる写真を撮っている兄ちゃんで終わらないためには僕は芸術家になるしかないだろう。
ていうか、なりたい。いやむしろ、もうなっている。